民謡歌手木津かおりのブログです。
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みなさま☆ミ 『よろしくお願い致します♪』
東日本大震災の被災避難体験
 今日であの東日本大震災から半年ですね。
あっというまです。
日々の生活に、記憶も薄れてがちなってしまっていて
反省するところであります。もう一度心に刻む為にも、
以前宮城県出身の知人から「同級生の被災体験記を送るから読んでくれ。」と
送られてきた体験記を投稿します。

文章の中には色あせること無い体験がつづられていて、
自分だけでなく、沢山の人に読んでもらいたい。と思い、
ブログに載せる旨了解を頂いて居たものです。
お名前だけは、イニシャルにさせて頂きました。

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東日本大震災の被災避難体験 〜H.O〜


今回の東日本大震災において、私は津波に直接巻き込まれたわけではありません。津波の猛威を見たわけではありません。しかし、この災害に巻き込まれた事は事実であります。体験したことは年月が経てば記憶が薄れ、忘れてしまうでしょう。

 そこで、記憶のあるうちに自分の体験を書き残して置くことにしました。

 

 定年の2年後、単身で故郷に近い、宮城県の気仙沼市に来た。遠くに海が見える山の中腹の住宅街に住んでいた。そして、2年と2ケ月が過ぎた。

 気仙沼湾に浮かぶ大島と海が目の前に見える高台の家に移り住むことになったのは5ケ月前であった。周りは4軒の家だけで、近くの住宅地からは離れた静かな場所だ。

 2011年(平成23年)3月11日。朝、いつもと同じくカーテンを開け海を眺め、海の様子を見た。海の波は小さくのどかな海だ。

 私は、午前中、街の医院に出かけた。医院の待合室で、いつも朝に家の下の護岸沿いの道を犬と散歩している知人に会った。

 二日前にあった震度4の大きな地震の事を話題にして、エネルギーを放出したから当分大きいのは来ないねと言い、お互いに相槌を打って根拠のない納得をした。

 家路の途中、ホームセンターに寄り農具の買い物をした。いろいろ買いすぎ時間がかかってしまった。家に着いたのは午後1時すぎになり、遅い昼食になった。

 部屋で、園芸の本を見ながら畑に植える物を考えていた。突然、ミシッミシッミシッと揺れた。

反射的に顔をあげて天井を見た。地震だなと思った瞬間にガタガタガタと大きな音と共に家は大きく揺れた。様子をみたが止まる気配がない。

家の揺れる大きな音、家具は狂ったように動き、物はちらばり、家が崩壊するのではないかと危険を感じ、外に出た。

地面は激しく揺れ、地面の震動の音と家のきしむ音は大きく、サッシ戸が揺れでハズレ、家の中側に倒れた。家の脇にあるプレハブの物置小屋はブロック基礎の上を左右に大きくスライドしている。なんと恐ろしい揺れだ。

家から離れた場所で腰をかがめ地面に両手をついていて、ただただ揺れている家を見ていた。こんな地震は初めてだ。

 

これは、ここにいてはダメだと思った。津波だ。津波がくると直感した。

そう思ったら恐怖が胸の中を走った。何分揺れたのだろう、早く止まってくれと願った。長い揺れがおさまり、一目散に家の中に飛び込んだ。中は乱雑に物が散らばり、戸ははずれ、ガラスは割れ散り、大きな家具は倒れ、元の位置にある物はない。テニスのリックザックが目に入り、倒れた物の下から引っ張り出し、入っていたラケットを放り投げ、すぐに見つかった財布と手帳と持病の薬をリックザックに押し込んだ。

帽子を被り、目についた革ジャンをすばやく着て、マフラーを首に巻き、防寒着2着を腕にかかえた。玄関で半長靴の安全靴に履き替え車に乗った。

災害無線放送が耳に入った。6m以上の津波が来ると繰り返し放送している。はやる気持ちで海沿いの一車線の道を急いで走りぬけた。

そして、一時避難場所に指定されている国道45号線沿いのコンビニの駐車場に向かった。

JR気仙沼線の狭いガードをくぐり抜けて住宅街の広い道に出た。車の行く手に、我が家の下の家のおばあちゃんが孫を連れて急いでいるのが見えた。

車の中から「津波が来るから、家には帰ってはダメですよ」と言った。が、家におじいさんがいるから戻ると言う。おばあちゃんは孫の手をひき、早くもない足どりで、自分の家に向かって行った。

私は「え〜っ、なんで戻るの〜」と一人ごとを言い、車を道路脇に止め、二人の行く手に走り、孫を背負いおばあちゃんの家まで走った。

玄関前に孫をおろし、おじいちゃんを大声で呼んだ。おばあちゃんも追いついて来た。どうするのかと聞いたら、私の家の隣の高台の家の庭に避難すると言う。

私は車を止めてきた場所まで、目いっぱい走って戻った。一時避難場所に指定されている国道45号線沿いのコンビニの広い駐車場にはまだ人は集まっていなかった。

このころには、災害無線放送が10m以上の津波が来ると訂正していた。私はこの場所が安全なのか不安になった。もう少し高い場所に行こうかと考えた。

うしろから、午前中に医院で会った知人に声をかけられた。コンビニで食べ物を買っておいたほうがいいよ。と言われた。

コンビニにはもう品物は少なかった。それでも、多少の水とパン類を買い求めることが出来た。食べ物の危機感はこの時はあまり無かった。

国道45号線を見ると上下線を走る車が多くなったような気がした。周りにいる人たちもあわただしくなってきた。

 

この場所から離れたほうがいいと思った。

それで、海からは遠く高い所に住んでいる、近くの従兄の家に行こうと思ったが、行く途中の道は海沿いの国道45号線で、渋滞に遭ったら逃げ場がないのでダメだと考えた。

山側に行くしかない。コンビニの駐車場から国道45号線を横断して山が見える方向に向かった。

道を行き交う人も車も増え、自分もだが、みんなどこかに急いで向かっている。避難する人、家に戻る人なのか。

半年前まで住んでいた近くの高校の前に着いた。ここは気仙沼では高台なので安全だ。

高校前の道路は避難してきた車が駐車していて、他の車の走行のさまたげになっている。学校から何人かの大人が出てきて、駐車している車、走ってきた車を学校の校庭内に誘導していた。

私も校庭内に入った。無我夢中で行動をしていたので、地震発生からどれくらいの時間がたったのだろうか。津波の事も忘れていた。とりあえず、避難場所が決まった。

今まで避難に夢中でラジオの音も耳に入らなかった。M(マグニチュード)8.8の地震だった。津波は4mとも5mともと言っている。津波は来たのだ。

仙台の荒浜地区では遺体が200人くらい浮いていると。そして、地震の範囲は東北、関東、までおよんだ、津波は青森、岩手、宮城、福島、茨城、千葉と広範囲に来た。初めて地震の規模の大きさを知った。

ラジオでは、沿岸は水浸しでどこが陸でどこが海なのかわからない。幾つもの高い建物の上では逃げ遅れて避難した人たちがとり残されて寒さの中、救助を待っている。波は街の中でうねり建物を破壊し、車や船は波に飲み込まれている。と言っている。

放送を聞いている間にも車がガタガタと揺れ大きな余震がきた。外には雪が降ってきた。車のエンジンを切っていたので寒くなった。思い出したように、家族や兄弟に携帯電話で連絡したが、つながらない。

だいぶ時間がすぎ、同高校の生徒達5〜6人が缶ジュースの入っている段ボールを持ち避難者達に配って歩いていた。私も1本いただいた。

日が落ちると外は急に寒くなり、周りは停電のため暗闇だ。校庭のトイレを使う時は暗くて大変だった。止めた車の位置もわからなくなった。

今日一日の出来事を思い出した。長い一日だった。家は津波で流され、大事な物、思い出の物、全部無くなったのだと、目を閉じて思っていた。

 

静かな中、携帯電話が鳴った。避難に行こうとした従兄からだった。

お互いの無事を確認して電池節約のため電話はすぐに切った。ラジオの放送を聞きながら、この状態がいつまで続くのかわからないので夕食はアンパン4分の1にして食べた。車の燃料の節約も考えた。車の中では防寒着を足腰に巻きつけ、もう1着は肩にかけて、横になった。

暖房を切ると2時間くらいで寒くなり、目がさめる。そして、また暖房をかける。

この寒い夜に、建物に残され暖房が無く、暗闇の中、着の身着のままでいる人達がいるのだ。そんな事を思ったら、悲しくなって涙が出てきた。

家の下のおばあちゃんと孫の事も思い出した。無事である事を祈った。

ラジオでは気仙沼の街が燃えていると言っている。今、この高台の山の下の街では想像もつかない大惨事が起きているのだ。

 

3月12日。昨夜は寒さと何回もの余震で眠れなかった。朝、陽が車の中に差し込み暖かくなった。外に出て軽く体を動かした。周りを見たら校庭内の一角には50台くらいの車が避難していたのだ。

隣の車の人から、カボチャコロッケを2個いただいた。朝食に、持っているパンと一緒に食べた。美味しかった。

ラジオでは、一夜明け、港や街、工場、漁港が跡形もなくなり壊滅状態であると言っている。

私は、避難はしたけど、何する事も出来ない。大きな余震がまだまだあるので、車の中でじっとしているのが安全だと思った。

午前11時頃、東京は渋谷の知人から安否の電話が入った。電話は昨夜の従兄が最後で、あとはどこにも通信が出来なかった。だから、驚いた。

東京と東京なら通じると思い、東京の姉に私は無事でいる事を伝えてほしいと頼んだ。固定と携帯の電話番号を言って、連絡をお願いした。(祈りが通じ、家族や兄弟に私が無事であることが伝わり、その事を姉の娘がネットに流し、東京の知人やテニス仲間が見てくれた)渋谷の知人からの電話が受信できて本当によかった。

朝にカボチャコロッケをくれた隣の車の中に子供がいるのが見えたので、朝のお礼と言って、4個入りのアンパンを差し入れた。車2台で来ていた家族だった。

軽く体を動かしたほうがいいと思い、湾が見えるところまで歩いて下りて行った。この地区は5か月前まで、住んでいたので土地勘はあった。

 


遠く気仙沼の街には数か所、白く煙がのぼっている。昨夜からの火が燃えて延焼しているのが見える。

この地区の自治会館の前まで行ったらグランドゴルフ仲間や知り合いが何人かいて、私を見て驚いたようだ。

私が海の近くに引っ越した事を知っていたので、心配していたらしい。「無事で良かったなあ」と声をかけられた。近くの高校の校庭に避難している事を話した。

再会を喜び合った後、車に戻り横になって空を見ていたら、いつの間にか寝てしまった。そして、大きな余震で目が覚めた。遠くに飛行機やヘリコプターの爆音が聞こえるようになった。救助活動が始まったのかなと思った。

1台のヘリコプターが校庭に降りた。その後、バリバリバリとヘリコプターが大きな音を出しながら行き来するようになった。校庭があわただしくなった。

日が西に傾き、外は気温が下がってきた。車の窓ガラスが曇る。外はあっという間に暗くなった。突然、窓をトントントンとたたく音がしてライトを照らす人がいる。

昼に自治会館の前で会った知人だ。「今夜、家に来て泊まれ」と言いにきた。

暗闇の寒い中、校庭に止めてある数十台の車を1台1台に声をかけて捜しにきてくれたのだ。

嬉しかったが、今夜は車で寝るからと、ことわり、明日から自治会館にお世話になると言った。

彼が帰った後、暗闇の寒い中を捜しに来てくれたのに、断ってしまったことに申し訳ないと思った。

 

3月13日。今日は暖かい。朝、残っているパンを少し残して食べた。校庭には、いつの間にか自衛隊の車両が数台止まっていた。

10時頃、高校の校庭を後にして自治会館に向かった。公認の避難所ではないが、地区の人が数人避難していた。大きな余震が怖くて、自治会館に泊まっている人達だ。

この人たちと寝起きを共にする事になった。この地区は気仙沼市の山の中腹に位置する区画された団地である。

自治会館前からは、遠く気仙沼湾に浮かぶ大島の端と太平洋が見える。今回の地震でこの地区も電気、水道は断たれた。自治会では自主的に片道1時間かかる山に行き、湧水を汲みに行っている。2tトラックにプラスチックの大きな樽を3個積み、午後2時ごろに自治会館に戻ってくる。

 


時間を見計らって、地区の人達は水を入れる容器を持って集まってくる。私は何をするでもないので、水を容器に入れる手伝いをした。

夕方に知人のIさん、Tさんが寝袋や毛布を持ってきてくれた。毛布を持ってきたTさんが、夜は家に食べにこい。と食事に呼ばれた。

ローソクの光のもとでTさん夫妻から暖かいカボチャ粥をご馳走になった。

午後7時半には自治会館に戻り、座布団を寝床にして寝袋の足元を防寒着で巻き、着の身のまま寝袋に入り、その上に毛布をかけて、3日ぶりに足や背中を伸ばして眠った。午後8時にはローソクの光や懐中電気類は消した。私の携帯電話の電池は完全に切れてしまった。

 

3月14日。朝6時30分頃起床。何か情報があるかなと思い、正式の災害避難場所になっている市の総合体育館に行って見ることにした。自治会館から徒歩で20分くらいの所にある。

自治会館の団地内の坂を上りきり、ゆるやかな下りの遊歩道を歩き、途中からは長い下りの階段に変わり市の総合体育館に直結する通路に出る。

朝の空気は冷たい。私の服装は耳まで隠れる顎ひも付きの帽子を被り、首にはマフラーを巻き、革ジャンの上にロングのダウンを重ね着して、半長靴の安全靴をはいて、そしてリックザックを背負っている。

午前8時前、市の総合体育館は避難民で溢れていた。私も避難民なので受付で登録した。受付の長机の端には新聞が高く積んであった。津波が家々を襲っている写真が目についた。改めて大変な事態になっている事を知った。

新聞を10部いただきザックに入れた。受付の人に人手がいないので、配ってほしいとたのまれ、各部屋や廊下にいる人達に配って歩いた。この避難所には最終的には多いとき800人の人が集まった。

炊き出しのおにぎり1個をもらい、自治会館に戻った。新聞は、自治会の役員や知人に配った。

寝袋を貸してくれた、Iさん宅にも新聞を持っていったら、朝食に呼ばれた。

おにぎりを貰って来たからと、丁重に辞退したが、Iさんに「それは、とっておいておなかがすいた時に食べればいいのだよ」と言われた。

私はその親切な言葉に目がうるんでしまった。そして、ご厚意に甘えた。

午後は街の様子を見に出かけた。途中公衆電話があったので災害ダイヤルを回してみたが、通じなかった。

いつも、買い物に通う見慣れた道の途中から、道が無くなり家屋の残骸で埋め尽くされている。

 


唖然となった。平らな場所のすみずみまで、津波は押し寄せ何もかも壊し、車はゴロゴロ何台も何台も転がっていた。

一面ガレキの荒野となってしまった。広大なゴミ捨て場と表現したら申し訳ない。この中にはもしかしたら、まだ、救助を待っている人がいるかもしれないし、遺体で埋まっている人達がいるかも知れない。

とてもこの状況をいつまでも見ていられない。悲しくなった。自然の驚異をまざまざと見た。

夕食は2日前に車の所まで捜しに来てくれたSさん宅に呼ばれた。

Sさんの実家は港に近い所にあり、家は流された。と言った。親戚の人は無事に避難したとの事でよかった。

 

3月15日。午前6時半起床。午前8時前には避難所に着くように出かけた。

避難所でおにぎりを1個もらい、今日は避難所内の椅子に座って一人でおにぎりを食べた。外に大きなオレンジのタンクが3個並んで置いてあるのが見えた。汲んでいる人に聞いたら、飲み水だ。地元建設会社の支援だ。

今度来る時は水を入れる容器を持ってこようと思った。しばらく避難所の様子を見てから、自治会館に戻った。

Iさんが呼びにきて、自宅について行った。奥さんから昼に食べなさいと、弁当をいただいた。

避難生活も4日目、ここでいつまでも世話になっている訳にはいかない。

自分の現住所の地区にある避難所に移る事を考えた。登録をしに行かないと行方不明者になっているかも知れない。

午前10時。自分の地区の避難所になっている中学校を目指し徒歩で出発した。

行く場所は初めてで、歩く道も初めてだ。春がまだ浅い里山の風景を見て歩いていたら、震災があった事を束の間忘れた。

途中何度か道を人に尋ねた。1時間も歩くと汗ばみダウンのコートを脱いで歩いた。目的の中学校には2時間近くかかった。中学校の体育館は避難者でいっぱいだ。市の職員に会い、今までの経過を話、避難登録をした。

登録者名簿で、我が家の下の家のおばあちゃんと孫が無事である事がわかった。気にしていた事が一つ消えた。

これから、自分の家を確認しに行く。心穏やかではない。

3月11日に一時避難した国道45号線沿いのコンビニが見えた。津波の被害はなかったようだが、店は閉店していた。

 


そこから海のほうに向かった。150mくらい曲がりくねった坂道を下って行ったが津波が来た跡がない。最後のカーブを曲がったら、JR気仙沼線のガード手前にある一軒の家が壊されていた。

ガードの向こうはガレキで通れない。JR気仙沼線の線路を歩いて隣のAさん宅の庭から行く事にした。平屋の我が家の屋根が見えた。

え〜っ。何、何。と驚いた。津波で家は流されていなかった。倒れてもいなかった。家は頑張ったのだ。

家の下のおばあちゃんの家は流されてはいないが、一階と二階の中は柱があるだけで、中身は流されて何も無い。Aさんの裏を走っているJR気仙沼線のレールが200mくらい軌条からはずれて二両編成の車両が30mも離れた田んぼの中に横たわっている。地震の時に緊急停車して、全員が近くの小高い丘に避難した後に津波がきたらしい。

家の周りの被害を確認した。物置小屋が流されて無かった。家の壁には随分亀裂が入っている。居間のサッシ戸は地震の時に外れて倒れたままだ。家の中は家具が倒れ畳は浮き上がったまま、物は乱雑し黒く臭い泥にまみれていた。

津波は床上で50〜60cmあがったようだ。多少の補修と片付けで、整理すれば、住めるかなと思い、住む決心をした。そして、隣のAさん宅に挨拶にいった。

Aさんは津波が来た時、もう一軒隣の高い家の庭で、自分の家族と下の家のおばあちゃん夫婦と孫とで見ていて、津波は10m以上の高さで来ていた。と言う。津波が目の前まで来た時は、もしかしたら、ダメかと思ったらしい。

下の家のおばあちゃんは、自分の家にどんどん水が入っていって、家を壊し、家財等が流されていくのを見ていて倒れてしまった。と言った。

10m以上だと我が家は完全に飲み込まれていた筈だが。奇跡にも、地形が助けてくれた。庭で90cmぐらいしか水位が上がらなかった。

10mの津波は隣の高い宅地の土手にぶつかり、私の家の庭に流れて来たが反対側が低地なために水位が上がる暇なく低地の方に流れて行ったとAさんは言っていた。ガレキが流れてこなかったのも幸いした。

Aさん宅は床下で済んだと言う。が、勤めていた会社が流されて再建ができるか心配していた。Aさんの家族は奥さんとおじいちゃんの3人暮らしだ。

奥さんとおじいちゃんは避難所に入っている。震災後、盗難が横行しているので、私に、一緒に泊まってくれと、言われた。

私も隣で寝泊まりして片付けをしたほうが、楽なので18日から泊まりに来ることを約束した。

 


国道45号線沿いの閉店しているコンビニまで戻った。駐車場の車止めの縁石に腰をかけ、国道45号線を眺めながら、朝にIさんの奥さんにいただいた、おにぎりを食べた。

玉子焼きとミカンが入っていた。有難くいただいた。時間は午後1時をまわっていた。

帰りは国道バイパスを北に向かい右手のほうの津波で家がなくなって遥か海が見えるガレキの情景を見ながら歩いた。

今日は随分歩いたので、足は疲れていた。自治会館までの最後の坂では右足が動かなくなった。脊柱管狭窄症だ。痛くはないのだが、足が動かなくなる。

なんとか足を前に出して歩いた。ノロノロ亀さん歩きになった。平坦のところまで着いて少し休んだら、歩けるようになった。

自治会館にTさんがいて、夜は家に来るよう言われた。それまでの時間、会館で一緒に避難している子供達と遊んだ。

 

3月16日。朝、外は雪が積もっていた。昨夜からの雪だ。安全靴の冷たくなっている靴底に足をいれ、外に出て、雪で手や顔を洗った。

市の総合体育館に行く前に、Tさん宅に寄った。

2Lのペットボトル3本と小さいタンク2個を預かった。高齢者の夫婦には避難所まで水を汲みに行くのはきつい。今日などは寒く、手足が冷たく、雪があって歩きにくい。

避難所内のベンチで貰ったおにぎりを食べ、水を入れたペットボトルをザックに入れ、タンクを両手に持ち、雪の積もった長い階段と遊歩道を登り、戻ってきた。Tさんにお茶を飲んで行けと言われたが、Iさん宅の水汲みもあるので、ことわった。

Iさんからも水入れの容器を預かり、もう1度避難所まで行って水を運んできた。昼にはSさん宅に食事を呼ばれカレーライスをご馳走になった。

 

3月17日。今日は気になっていた従兄の家に顔を出しに行く事にした。国道45号線のガレキの谷間の道を車で走るのが嫌だったので、山側の道を行った。それでも、国道に出て何百mは走らなければならない。

案の定、国道45号線は悲惨な状態だ。道路のアスファルトはめくられ凸凹道になっている箇所もある。

従兄の家族は無事であった。家まで津波はこなかったが、地震で瓦が何枚か落ちたらしい。

 


津波が来るのを高台の畑から見ていて、陸地の家々を壊して行くのを見ていたら足が震えたと言う。

私は、自分の家の中の様子を話し、3月18日からは隣の家に泊まり、家の片付けを始める事を話した。

自治会館に戻ったら、水道はまだだが、電気が復旧していた。携帯電話機に充電する事が出来た。

 

3月18日。朝早く、兄から災害後、初めての電話が入った。随分心配していて、家に来いと言われたが、家が流されず残っていて、片付けをしなければならないので、そのうちにと言って、電話を切った。

10時頃、今日は車で水汲みに行き、お世話になったIさん、Sさん、Tさん宅に寄り、今日から自宅のほうに戻りますと挨拶に行った。感謝しきれないほど、この地区の人達にはお世話になった。Iさんからは今日も昼食にとおにぎりと缶詰等をいただいた。

途中、自分の地区の避難所になっている中学校に寄り、市の職員に自宅の隣のAさん宅に避難している事を告げた。

家の近くまで車で行ったが道は通れない。住所と名前を書いた張り紙をして路上駐車にした。それを見た知人が悪戯をされる事を心配してくれて、うちの庭に入れろと言ってくれた。

今日からお世話になる、お隣のAさん宅に挨拶に行った。泥にまみれた家に一緒に入り、家具を起こすのをAさんに手伝ってもらった。

余震が来ても家具が倒れないようにとAさんは自分の家からロープを持ってきて縛ってくれた。そして、私は乱雑している家の中をしみじみと眺めた。

本格的な片付けは、明日からする事にして、押入れから濡れなかった上のほうの布団類一式を出して、Aさん宅の1階のおじいちゃんの居間に運んだ。


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