民謡歌手木津かおりのブログです。
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東日本大震災の被災避難体験 その2

 気象庁は3月13日、地震の規模を示すM(マグニチュード)8.8から9.0だったと訂正をした。震度は6強から7に訂正された。

1952年のカムチャツカ地震、M(マグニチュード)9.0と並ぶ地球上で第4位の規模になる災害となった。

岩手県から福島県までの250Kmにわたる海岸を高さ10m以上の津波が襲い一部では20m以上になったと言われている。(3月14日の朝日新聞)

 

私は3月18日から避難場所をAさん宅に移した。電気、水道は復旧していない。3月19日。朝は寒かった。昨夜は4回も大きな余震があり、そのたびに目を覚まして天井を見るが、起き上がらずに揺れがおさまるとすぐに寝るようになってしまった。緊張感が薄くなってきたようだ。

朝の配給をもらいに地区の避難所に出かけた。徒歩で20分かかった。ここの避難所ではボランティアの炊き出しはあるが、体育館に避難している人にしか配給していないので外部の人はダメですと、断られた。自宅避難者には冷たすぎるのではと思った。

もし、腹ペコの子供を親が連れて来た場合はどのように対応するのかなと思ったりもした。懐中電灯、ラジオ用の電池だけはもらって帰ってきた。

帰り道、国道45号線の前のあのコンビニが開店している。食べ物の品はおにぎりだけで、売れ切れだった。

携帯電話の充電乾電池が残り2個あったので2個を買った。

歩くたびに、肛門付近がむずむず、ひりひり痛い、一週間も風呂に入っていないので、不衛生になっているのかなと思った。

昼近くに、県堺の岩手県に住む甥がガレキの中を水やおにぎり、乾電池、濡れティシュを持ってきてくれた。有難かった。

今日は天気が良く片付けにはいい日だ。しかし、泥にまみれた物を、何をどの部分から、どのように片付けたらいいのかわからない。とにかく家の中の濡れている物を庭いっぱいに出して、陽に当て乾かした。

海水に浸かった家電は捨てるしかない。IC機能の機器もだめだ。使用可能  な物と捨てる物を選別し、夕方には再び家に入れた。

夕食はAさんの奥さんが避難所から来て、野菜スープを作ってくれた。昼の残りのおにぎりと一緒に食べた。夕食を済ませたあとは、携帯ラジオの放送を聞き、8時頃には布団に入った。ローソクを節約するためにも早めに寝た。

早く寝た分、午前2時頃には目が覚める。庭に面したガラス戸を開けて冷え込んでいる夜明け前の外に出て庭で用を足した。とても、寒かった。

 


大きな余震や津波の警報が出た場合の事を考えて、部屋からはすぐに出られるようにしていた。

 

3月20日。朝は昨日の残りのおにぎり1個と反射式の石油ストーブで沸かした湯で作ったインスタントみそ汁を朝食とした。

昨日のおにぎりは、ぼろぼろと固くなっていた。人間、食べ物がないときは味や食感は関係なく食べてしまうものだとわかった。

今日も、昨日のように濡れている物を外に出し、部屋の中では畳を立てかけて床板を乾かした。

携帯電話の充電メモリーが一つになっているので、電気の復旧している、市の総合体育館に出かけ充電してきた。

陽が陰る4時頃になると寒くなる。暗くなる前に、干していた物を家の中に入れた。

 

3月21日。今日は生活道路を確保するため、堤防脇の道路に流れてきた家の屋根部分の撤去を付近に住んでいる3人でやった。

大変な作業だった。瓦をはがし、屋根板をはがし、柱や梁を解体する。これが、二つもあった。そのほかにも、ごみ、がれきが山のようにある。とりあえず、ゴミは道路脇の空き地に仮置きした。

昼前に、小中時代の同級生のU君が道のない所を歩いてきて、夫婦で見舞いに来てくれた。持ってきた食料でAさん宅にあがりみんなで食事した。

夕方、Aさんの奥さんが顔と体をふくようにとあつい湯を沸かしてくれた。

そして、何日かぶりに夜はAさんとビールを飲んだ。ラッキョのつまみが甘酸っぱくて美味しかった。今日は、姉をはじめ友達からの電話が多かった。

 

3月22日。くもり空で、寒い日だ。昨日の続きの道路上のガレキ撤去をした。市がしてくれるのを待っていたら、いつになるかわからない。

そう思って作業していたのだが、ゴミやガレキの下に長いコンクリートの電柱があった。これで、万事窮すである。人力での撤去は無理だ。

今日も昼前に、日替わりで別の小中時代の同級生Uちゃんが夫婦で食料を沢山持ってきてくれた。有難かった。

この夫婦には家の補修の事でも後々大変お世話になった。

午後、市内の高校の避難所に入っている知人から電話が入った。励ましと携帯の充電をかね、尋ねて行った。

 


話を聞くと、この避難所は早い時期から食料物資の配給が良かったみたいだ。部屋の中も暖かいし、3時にはおやつが配給されていた。食料管理の人が、おやつが余ったので、ほしい人はと言っている。こんな、避難所があるのだ。

私が食料の配給を断られた中学校では、あれから、物資が充分来ているのだろうかと思った。

国道45号線沿いのあのコンビニの駐車場には自衛隊の給水車が来ていた。付近の人達が容器を持って並んでいた。この地区にもやっと水が来たのだ。

津波の被害に関係ない人達でも電気、水道、ガスが使用できない人達は沢山いる。みんな被災者なのだ。

夜のラジオ放送で県知事は燃料不足のガソリン、灯油については、今、県内にタンク車がぞくぞく入って来ているので、県民に行き渡る量が入っていると言っている。そうあってほしいと願った。

とにかく、電気、水道、ガスが復旧しなければ、生活のメドがたたない。早急に復旧してくれる事を願うばかりだ。

 

その後、岩手県盛岡市に住んでいる兄が迎えに来て、同じ盛岡にいる姉の家に、一時的に世話になった。二週間ぶりの風呂は心身共に満悦した。就寝においても無防備な状態で眠る事ができた。震災後、久しぶりにテレビも見た。

今までは、ラジオからの情報だけであったが、テレビのニュース画面での津波が家々を壊していくさまはあまりにも恐ろしく、見たくはなかった。

盛岡市にきて4日後、神奈川県川崎市の友人から救援物資を気仙沼に持っていくと連絡が入り、一週間の滞在後、Aさん宅に戻った。

面識の無い、若者二人が夜どうし災害地のガレキの中、ワゴン車を走らせ物資を持ってきてくれた。本当に有難いことであった。

午前9時半頃に着き、ガソリン、灯油、水、極太のローソク、乾電池、ガスコンロとボンベ、反射式石油ストーブ、など等を沢山いただいた。食品類も沢山いただいた。大なべに調理して持ってきたハヤシの味は絶品であった。

4月4日に待望の電気、水道が復旧した。これを機会に家に戻る事にした。寝る部屋を片付けて少し汚れのある畳と青シートを敷いた。寝る時は枕元に一晩中かけている携帯ラジオ、懐中電灯、携帯電話、そして貴重品、水を入れたショルダーバックを置いた。大きい余震や緊急地震速報が出た場合、すぐ外に出られるように、いままでと同じように服のままで寝た。

ラジオからのポワンポワンと言う緊急地震速報の合図音がでるとビクッとする。大きな揺れが来る知らせだ。

 


自治会からの連絡で、同地区で被害に遭われた家の片付けをする招集があった。家の中には入らないで、庭の中のガレキだけを道路上に積み上げた。

50人体制で10日間の予定であったが、4日目に全国からのボランティアの人達が入り、私達は解散となった。

私の家にはガレキが漂着していないので、ボランティアの人達のお世話になることはなかった。

家の前の海沿いにも自衛隊員が来るようになった。ガレキ撤去班と海沿いの捜索班と、また、ヘリコプターでの捜索班が家近くを連日バリバリバリと大音響で海上を低く飛んでいる。

片付けの毎日ではあるが、市内の友人からの連絡が増えてきて再会が多くなった。お互いの無事をよろこび合い、災害当日の事を語りあったりした。

みんなそれぞれ、九死に一生を得たとか大変な目に遭ったようだ。

水門を閉めに行ったら、津波が見えて逃げた。手伝いで遺体をお寺に運ぶ時に顔が無かった。腕がなかった。倒れた大木の枝に人がかかっていたのを見た。第一波の津波が急激な勢いで引いていく、そして第二波の波とぶつかり大きく盛り上がり陸に向かってきた。潮が50mか100mは引き、海底が見えた。海の色は真っ黒で、渦が何か所も出来ていたと。等々の体験を聞いた。

私は見には行ってないが湾の奥の中心街は津波の終点になり、街の中には大型の船が何艘も乗り上っていると言う。津波の巨大な力を感じるものである。

災害から三ケ月と二週間が過ぎました。いまでも災害地には自衛隊や全国からのボランティアが入り復旧の手伝いをしている。本当に有難いことである。

一瞬にして肉親や家財を失い悲しみの中で避難生活をしている被災者の皆様には心よりお見舞いを申し上げるとともに、お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りいたしたい。

 

避難生活では友人、知人、見知らぬ方たちに親切にされ、励まされ、勇気づけられ、又、多くの方々から沢山の救援物資等や御見舞いもいただきました。 東京からかけつけて片付けの手伝いをしてくれた友人もいました。おかげさまで、被害の復旧が日々整い、生活も落ち着いて来ました。

ここに皆様方に、厚くお礼を申し上げます。有難うございました。(小)       

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かおりさま。大変お久しぶりです。
昨日に引き続き、読ませていただきました。
読みながら映像に引き込まれていくようでした。
たくさんの方に読んでほしいなと思いました。
実際東京に住んでいる私に本当の被災の辛さなんて半分もわかってないと思っていましたが、詳細なライフラインの断絶や食料の調達の大変さを知ることで被災された方たちがおひとりおひとりこうやって乗り越えているんだ、、、と思いました。

祈ることと小さいお手伝いを続けていきたいと思います。
from. やっこ | 2011/09/12 21:43 |
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